『生物多様性とは何か』を読んで、のついで

 ブログ原稿を書いている時、コンビニの廃棄のポイント還元が検討されているというニュースと、民家に現れたクマを射殺するというニュースが上がった。タイムリーなので、それについて触れてみたいと思う。感想なので問いかけはするが、強制したいという意図はないことを宣言しておく。また、あんまり社会的なことを言うのは好きでないので適当に読んでほしい。

 コンビニの廃棄については、非常に良いと思う。廃棄コストと売り上げの検討や売り上げを子育て支援に回す。それは直接的に環境にも負担を減らす取り組みになるだろう。

 問題なのは民家のクマについてである。

 新潟 NEWS WEBによると、新潟県十日町市では、今月に入りクマの目撃情報が相次いでいたという。5月12日の早朝、山岳部付近の民家にクマが出没。民間に危害が及ぶとして地元の猟友会のメンバーに射殺された。

 この事件を受けて、Twitterでは喧々諤々の議論、というか叩き合いが行われていた。

 具体的には「クマを射殺するのは可哀想だ」という声に対して、「自己陶酔」「脳内お花畑」など容赦のない言葉が投げかけられている。また、「三毛別事件」を引き合いに出す者もいた。

 さて、では今回の事件で私は何が問題だと感じたのだろうか。

 第一は、この不毛な叩き合いそのものについてである。

 クマを可哀想と思う人が何故叩かれているのか、私にはわからない。それは「クマがかわいそう」という意見に全面同意しているのではなく、なぜその言説を叩くのかがわからないという意味でわからないのだ。可哀想と思うのは個人の自由である。また、それとは反対に、現実にクマが現れたら射殺するほかないと考えるのも個人の自由である。ではなぜマウントの取り合いのようなリプライが発生し、鬼の首を取ったように触れ回るのか。Twitterでは匿名性という誰が発しているのかわからないという状態から、人間の攻撃的な本性が出やすいというのを聞いたことがある。また、自身が正当な立場であると感じ、実際に多数の賛同者がいると気が大きくなり発言も過激になっていくというのはよく見られることである。

 このような叩き合いを建設的な議論とはまず言えないだろう。認識を変えていこうというの意図があるのかもしれないが、喧嘩腰や高圧的な態度でモノを申しても反感を買うだけだ。「あなたがやれば」という意見も、大した反論にはならないように思われる。既存の方法で問題ないかと考えると、百点満点とは言い難い。何かしようとしても勇気が出ない場合だって当然ある。また、この言説を突き詰めていくと、クマと被害者と出没地域にいる民間人、それに猟友会の人々や駆除チームくらいしか意見をすることが出来なくなってしまう。それは新しいアイデアを取り入れることの妨げにもなる。

SNSという場はコミュニケーションツールが主であるため、このような意見の投げつけ合いは必然的に起こることなのかもしれない。だが、このような行為は双方にとって有益ではない。あなたの意見はあなたの意見、相手が受け入れるとは限らない。不毛な叩き合いは辞めて、言説は空リプにするくらいがちょうどいいのではないだろうか。発言の自由はある。

 第二にこの二意見の認識の違いについて。

何故、クマを可哀想と思うのか。それは動物愛護の立場であったり、クマに関連した作品群が好きなのでクマを殺すのは良くないという話であったり、様々だろう。確かに、この2つの例の後者の言説は「現実をみろ」と言われても仕方がないように感じられる。物語と現実の違いは一応ある。

しかし、動物愛護の場合はどうだろうか。動物愛護は、生物はみな対等でありそれら生物を虐待や密猟から守ろうという立場である。この立場を安易に封殺してしまうと、生態系の維持といった活動も反対されることになるのではないだろうか。

日本、とりわけTwitterというSNSにおいて動物愛護を訴える者は叩かれやすい傾向にある。それは何故だろう。原因の一つに、愛護の対象が愛玩動物だけのみ、くじらやゾウなど知性が感じられる動物のみという印象が強いという点があると私は考える。Twitterのユーザー検索で「動物愛護」を検索すると、当然愛護団体が出てくる。ヘッダーやつぶやきを見るとそのほとんどが犬猫を対象にしていることがわかる。確かに、ペットのみを対象にするのは動物愛護を掲げるには対象が些か小さすぎる。自身の興味ある動物は助けて、それ以外は対象にしないというのも納得できる話ではないだろう。

また、今回この立場の批判で言われた「自己陶酔」も、動物愛護ではよく言われるように思う。いわゆる、ファッションとして動物可哀想と言っている場合があるからだ。これについて私は何も言えないし、長々と論じる必要もない。

これらを鑑みる時、批判されやすい土壌が出来上がっているというのが率直な印象だ。動物愛護者は、この印象を取り除くところから始めなければいけないのではないだろうか。

 

次に、長いが今度はクマ射殺擁護派の意見を見ていこう。(クマ射殺擁護派と書くが、私自身は射殺賛成寄りの致し方なし派である。表現の仕方が悪いのは理解しているのでご容赦頂きたい。)

クマ射殺擁護派の大体の意見としては、「クマは危険」「実際にクマに遭遇した時に同じことがいえるのか」である。

 日本にはヒグマとツキノワグマの2種類が生息している。民話にも多く登場することから、古来より日本人と関わりのある文化的には重要な動物であろう。ヒグマはクマ科最大の大きさを誇り、日本では北海道にのみ生息している。ツキノワグマは本州から四国にかけて存在していて、双方とも人間と生存範囲が重なっている。日本のツキノワグマは生息域によってはレッドリストに含まれるものあり、九州ではすでに絶滅したとされている。

 さて、擁護派の意見の中に「三毛別事件」をみよという意見があった。これの詳細については、ウィキペディアが非常に読み応えのあると評判なのでそちらを参考にしてもらいたい。ここで提唱したいのは、三毛別事件が今回の事件に相応しい事件例であったかということだ。三毛別で村を襲ったクマの個体はヒグマであった。そして、今回の事件はツキノワグマである。同じクマではあるけれども、その生態は完全に一致しているとはいいがたい。それらを同列に並べることは誤診を招くことにはならないか。

 「三毛別事件」はヒグマの恐ろしさ、強靭さ、習性については非常に説得力がある事件だ。それを見ることで見識を改めてほしいと思うのもわかる。しかし、クマは非常に恐ろしい動物だから見つけ次第射殺してくれという方向に認識がいってしまったら、生態系の認識としては誤っているのではないか。「三毛別事件」について言及する者はこの点についても考察してみてほしい。

 「実際にクマに遭遇した時に同じことが言えるか」という意見は、生態系の正しい認識を持つ際には重要になってくる言説である。「三毛別事件」でも、ヒグマの習性の総括が掲載されており、ヒグマ理解のためには意義深い総括である。

クマと遭遇する状況とはどのようなものが挙げられるだろう。今回は住宅地に侵入したケースだ。他には山登りの際に遭遇するくらいか。

住宅地に遭遇した場合、速やかに避難し警察や自治体に連絡するくらいにしかないように思われる。山登りの際にも同じような手段が取られるはずだ。流れとしての問題はない。

しかし、問題なのはどのように避難するかである。ヒグマの場合、動く者を追う習性があると言われる。山で遭遇した際は、大きな声を出しながらクマの正面を見据え徐々にバックしていく方法などいろいろあるが、恐怖心に支配された人間がそのような行動を冷静にできるだろうか。

恐怖心を過剰に増長させることの危険性がここにある。正しい知識を持つ者であっても、現場に出くわした際、知識通りのことを完璧に遂行できるとは言い難い。そうでないものはなおさらだ。クマに遭遇して助かるかどうかは運のようなところがあるけれども、しっかり知識を持って実行できていれば助かる確率もあがるのではないか。「クマに遭遇した場合におなじことがいえるのか」とだけ意見している者は、クマ対面の印象を強調するだけでなく、もし可哀想派がクマに遭遇してしまった場合のために、対処法を書いておいたら良いのではないだろうか。助かった人から感謝され、認識を改めてくれるはずだ。

また、ヒグマではあるがクマに遭遇した場合の対処法については、公益財団法人知床財団が詳しい方法を提示している。

https://www.shiretoko.or.jp

 

これらすべてを顧みた場合、ただ、クマは危険だから可哀想という認識は間違っているというより、実践的な知識を持つことと動物を正しく把握することを訴える方が、諍いに発展するケースは少なくなるように感じられる。重要なのは相手と対等に話し合うという対話の姿勢であり、教えてやろうという説教的態度ではないだろう。

 

最後に、クマの射殺という点を考えてみたいと思う。

クマを射殺することは良いことだろうか。勿論、ここでは射殺という点にのみ言及するのであり、猟友会の行為にケチをつけるわけではない。猟友会は、生物に最大の敬意を払い人間側と生物の双方を両立させるバランサー的役割を担っていると私は理解している。その行為は賞賛こそすれ批難を浴びせるいわれはない。

現在、クマを射殺することは致し方ないように思われる。麻酔銃はその携帯に都道府知事の許可が必要であるし、クマの場合は麻酔が効くまでに凶暴化する恐れがあり原則として許可されていない。また、クマが人間の味を覚えてしまった際、人間を再度捕食する可能性が高まるため、それらを予防するためにも射殺するということはもっともであると私は考える。大型種であるため、ケージで捕獲という訳にもいかない。アメリカで使われるほどの大きなケージがあれば別だが。

これらを考慮すると、やはりクマを射殺することは他に方法がない点で致し方ないように思われる。しかし、先述したように日本のクマ――とりわけツキノワグマ――は地域によっては絶滅危惧種であるため、保全は必要になるだろう。そのため、今現在は、射殺する選択が取られることに異論を唱えることはできないが、それ以外の方法を検討されるべきだと私は考える。

 

日本は人間と動物の距離が非常に近い地域だ。野生生物の生存圏と人間の生存圏が元々重なり合っている地域は多いし、これからも増大していくだろう。

それにしても、なぜクマが出没したのだろうか。これはただ単に迷い込んだのかもしれないし、山に食べられるものが少なく仕方ないから降りてきた先に民家があったのかもしれない。前者はどうにもならない。クマと会話ができないからだ。しかし、山に食べられるものが少なくなったというのは、私たちに原因があるもしくは原因はなくとも、何とかできそうな問題ではないか。森林の伐採によりクマ、及び野生生物の住める地域が減っていることは知らない者の方が少ない現実だ。それらに対してどう接していくかを問われる時が来たのではないか。

日本は大きな保護区を作るほどの国土も財力もない。さらに生物の関心が一般的には低いことから生態系の問題は後回しにされることが多い。しかしこれらの問題は、クマ出没のように非常に身近なものであるし、私たちにできることのある問題である。生態系を正確に捉えること、現状を把握することはこの問題に取り組む際に大切であり、一般の人にもできる事柄だ。ゴミをポイ捨てしない、エアコンの使用回数を減らすなど些細なことでもよい、取り組んでいるのが重要なのだ。一人一人の意識が全体を変えていける風になることを願う。

 

 最初にも述べたが、今回このニュースについて取り上げたのは『生物多様性とは何か』を読んだ直後に起こった非常にタイムリーな事案であったからである。最後の方は生態系理解の方向に引っ張られてしまった感があったので軸はしっかりしていきたい。