山に行きたかった
山に行きたい。
業務を終え、ふと思い立った。
長かった梅雨が終わり、真夏日が続く今日この頃。都市で夏を感じさせるものといえばアスファルトから立ち上る陽炎、ショップの季節限定商品、道路の照り返し。
退屈だ。
私の周りにはいつも自然があった。鳥の声、草花の芳醇な香り、木々のざわめき、アンタレスの真紅の輝き……。
だから遠くから蝉の声が微かに聞こえてくる程度の自然の影が薄い都会で、私が山を求めたのは不思議なことではなかった。
ということで今日行こうと思う山はこちら!!!!!
川苔山
東京都西多摩郡多摩町にある標高1,363mほどの山だそうです。(Wikipedia見て)
私は基本ノリで決めるので、今回この山にしようとしたのもGoogle画像でいい感じじゃん!と思ったからです。
ということで
奥多摩駅到着!!!!!(pm10時)
ちょっと家を出るのが遅すぎたかなと思った。(大体家から3時間かかった。)
三連休ということもあって乗車率は80%くらい。多分山登りの人と川遊びの人が混じっていて、皆楽しそう。
バスに乗ろうか迷ったが、せっかくなので徒歩で目的地まで行くことにした。
下を流れる川の清涼がここまで届いてきて心地いい。
下で家族連れがキャッキャしてて私の心もウフフ。
こういう自然と人工のアンバランスさは好き。
道祖神でしょうか。
徒歩はこうした小さな発見をしやすいので良い。車だとスルーしてしまうようなものを立ち止まってじっくり見ることができる。
これは!!!
まずいんじゃあないのかぁ??
だがここまでで約半分くらい歩いた(2kmくらい)から、せっかくなので近くまで行ってどうなっているのか見てみることにした。
途中、釣りをしている人もいていいね~~~って思った。
蝉の鳴き声めっちゃするし、種類も多いので暑くてももうノリのノリ。
そうこうしているうちに目的地の入り口付近に……。
あッ!!!!
完全に封鎖されていました。
入ることすらかないませんでしたね。
ウケる。
さて、どうしようかとGoogleで手ごろな山とか何かを探していると。
3kmほど先に廃村がある!(画像は奥多摩駅からのトータル距離)
廃村には行ったことがない!
よし行こう!!
ということでさらに道を往き廃村を目指す。といっても舗装道路を往くだけなのでそこまで意気込むことではない。
ここを超えたところに廃村まで行ける道があるはず。
ゼァ!!!!!!!
…………
☻
こうなったら道路の行けるところまで歩いてやる!!
まさか両方ともいけないとは思わなかった。
みんな、こうなりたくなかったら下調べしていこうね♡(私は楽しいから良いですが)
さて歩くこと数十分。
なんかあった。
倉沢のヒノキ。
ヒノキがあるらしい。
今日の感じから本当に大丈夫か不安になってくる。
頑張って登ったのにここから先登れませんってあったら悲しいぞ。
足元がぬかるんでいるし、上から蜘蛛が落ちてくる。猿の声も聞こえる。
山。
思わずドラミングしてしまうほどにテンション上がった。
でもマスクつけて登るとめちゃくちゃしんどい。
大体30分くらい登ったくらいだっただろうか、目的地にたどり着いた。
おお。
いいね!!!!!!
完全に求めていたものがあった。
巨大なヒノキ、良いじゃん。
登った甲斐がありました☻
可愛い。
20分くらいで下山。(山ではない。)
めちゃ汗だくになったけど爽快だった。
元の道に引き返し、また歩き始める。
大体20分くらいしてトンネルにぶち当たった。(写真撮っておけばよかった)
歩行者通路があって、向かいから人が来ていたから臆せず進む。トンネルって意外と涼しいんだね。
なんか文章書くの下手になった気がする。(唐突な気づき)
トンネルを抜けると、そこはなんか、山?wでした。
地味に雲行きが怪しい。
すぐに住宅地に入り、何かあるかなと見たら
「日原鍾乳洞 この先2キロ」の看板があった。
鍾乳洞……。
よっしゃいったろ!
ここまでで大体5km。
さらに2kmも歩くのは気が引けたがここから先はバスが通らないというので致し方ない。(奥多摩駅からバスに乗っておけばよかったなんて言ってはいけない)
住宅地を抜けるとすぐ勾配のある一車線の狭い道に。左が崖、右が落石防止のネットがある岩山。道すがら土木作業員の方が休憩を取っていて、一人が擬音を発しながら何か作っていて面白かった。
ぬるりと歩くこと30分。
この看板、来た道と逆向きに設置されているのでちょっとだけ注意。車で来た人向きの看板だ。
いい感じですね。
大人800円という値段もお手ごろでいい。
さあ、中に入ろう……。
…………。
いやさっむ!!!
あまりの冷気に一回外出たわ。
汗だくの身体に10°くらいの冷気は身体に悪すぎる。
厚めのパーカーがあると楽かもしれない。
一旦整えて、リトライ。
足元に明かりがあるから進むのには苦労しなかった。上から滴る地下水が頭に当たって冷たい。
かがまないと入れないところもあって、岩の中を進んでいる感覚がじかに感じられる。職場も岩に囲まれないかな。
進みながら、名前の付いたスポットを見たりして進む。
ここ本当にすごい。
数百メートルはあると思われる広大な空間が狭い岩穴を通った先にあるというのは非常に神秘的で、自然の雄大さを感じる。
おのずと『地底旅行』が思い出されて、このさらに奥に未だ発見されていない地下世界があるのではないかと空想に馳せてしまう。
それくらい自然の強大な力を間近で感じることのできる場所、それが洞窟。
などなど、自然を肌で感じながら約一時間ほどで鍾乳洞から出てきた。
外から出るなり暑さを感じるのも一つの良さかもしれないと思った。
というわけで以上、山登りと見せかけた日原鍾乳洞のレポートでした。
その後帰り道で道路が渋滞、車でくすぶっていた兄ちゃんと話したりしたけど、そこは残念ながら省略。事故らずに帰れているといいな。(渋滞を抜け出したところまでは見届けた。)
私見として、鍾乳洞は夏に行った方がいいなと思いました。中は寒いくらい涼しいから、冬だと大変。夏の水遊びのような感覚で鍾乳洞に行くのもいいと思います。
というか、こういった感動は写真だと伝わりにくいのでぜひ行ってみてほしいなと思います。(そういう理由で今回鍾乳洞の写真はあえて少なめにしました。)
鍾乳洞。
楽しい!!
そんなこんなで山に行くつもりだったが鍾乳洞にいくという流れだったけど、いろんな発見があった休日でした。
夏はまだ、始まったばかり!!
ケーキを作りたかった
お久しぶりです。
長かった梅雨が明けましたね。
私は今人生の墓場こと就職で無事瀕死になっています……。
せめて休日はと思い最近何かを作ることが多かったんですが(カレーとか)、そういえばブログあったなと思い至ったのでまた再開してみました。
ということで本題「ケーキを作りたかった」始まります!
私(あ~~~会社辞めて~~~!)
そう思い立った瞬間、私の頭にまばゆいばかりのひらめきが湧いた……。
「そうだ!ケーキを作ろう!!」
完全にノリである。
勿論、ケーキを作ったことはない。
後に知ったが家の誰もケーキを作ったことはなかった。
でもやりたかった。
家族には絶対に失敗するといわれたが、「ケーキを作って美味しく食べる」というよりもただ「ケーキを作れる材料でケーキを作る」ということをやりたかったため忠告を振り切って作ることにした。(結果を恐れて行動は起こせない。)
ということで、本日のケーキはこれだ!
これはカレンダーに乗っていたケーキ。レシピも書いてあって良い感じぢゃん(笑)とか思ったのでこれにした。
あは~ん。
良くわかんないけど、ま、大丈夫やろ。
いえ~~い☆
まずはスポンジ作りから。
レシピ①全卵90gと上白糖45gをもったりするまでかき混ぜて泡立てたら、薄力粉45gを加えてゴムベラでさっくり混ぜる。
今編集して気付いたけどなんでこの写真の薄力粉30gしかないんだ……?
? ? ? (δεδ) ? ? ?
………………アハッ☆
全卵と上白糖を混ぜる際、「もったりって何い!?」とバタバタした。もったりってなに。
今調べたところ、生地を掬い上げてリボン状に流れ落ちていくくらいだそう。
なるほど、何が起こっていたのかだんだんわかってきた。
その後、これに溶かしバターと牛乳を加えて混ぜた後、型に入れて焼いていった。(レシピ②)
写真撮るのも忘れた。
さて、焼いている間にもすることが!
それはブルベリーソースを作ること!
④耐熱容器に材料を入れ時折混ぜながら電子レンジで二分ほど加熱したのち、冷ます。
これは知ってる!!!
去年ジャムを作ったのでもう流れでできました。
器にブルーベリーを入れて適当に潰す。その後ブルーベリーと同じくらいの砂糖とちょっぴりのレモン汁を加えてレンジ(500w)で20秒温める。すると砂糖が溶けるのでさらに、かき混ぜたり押しつぶしたりして良い感じだなと思ったらもう10秒加熱。するとブルーベリーソースができる。できた。
ブルーベリーは潰しやすいからレンジでもできたけど、多分イチゴだと厳しいような気がする。
そしてこれを生クリームと混ぜてブルーベリー生クリームを作っていく。
生クリーム作り
七分立……泡だて器で掬うとトロトロ落ちるくらいの粘りけ。
八分立……泡立て跡がしっかり残るくらいの粘りけ。
なんか七分半立くらいになった。
まあいいか。
さてそんなこんなでスポンジ・ソース・生クリームの準備が出来上がった!!
皆さん、後はお分かりだろう!
完成がこちらだ!
……?
??????
意味わからん。
なんでこうなった?
これ書いてる時も思ったけれど、まじでどうした?
一つずつ整理していこう。(私の心的ダメージが軽い順で)
まず中央にあるのが生クリーム。
これは普通にできた。
逆にいうとこれしかうまくできなかった。
次、ブルーベリーソース生クリーム。
左手前にあるのが完成品。
そしてその奥にあるボウルと薄力粉を挟んで向かいにある小皿に乗った何か。
これは「かつてブルーベリーソース生クリームだった何か」。
ブルーベリーソースと生クリームが出来上がった後、「よっしゃ―出来たから混ぜたろ!」と思って混ぜました。そしたらこれになりました。
察しの良い方ならわかると思うが、一つ手順が抜けている。
そう、冷ますのを忘れた。
おらあ!とかけたら見る見るうちに分離してあっという間に液体とぼそぼその個体に。
液体の方をホエイと呼んでいいのでしょうか?私にはわかりません。
個体の方はバターでした。食べたらバターでした。
なるほど~~。
一つ勉強になりました。
ちなみに冷ましたら普通にうまくいった。(なので完成品がある。)
さて、最後にこれ。
これは何?
「スポンジケーキ」です。
泣きそう。
初め、オーブンがチーンと鳴った時は(ぜってえ膨らんでねえな笑)とか思ってたらそれ以下。
食べてみると唯々甘い。何処かで食べたことのある甘味だったがわからない。甘い、そして食えなくはない。ホットケーキとフレンチトーストの間みたいな、よくわからん味。
姉曰く、「イギリスでこんなん食ったことある。」「プディングだわ。プディング」
図らずも異国の味になってしまったようだ。
なんでこうなってしまったのか。
原因は全部!!
これに尽きると思う。
①薄力粉の図り間違え
②バター溶かさず投入
➂かき混ぜ不足
④うちのオーブンでスポンジケーキが作れなかった可能性
うーーーん!全敗!
ひとつずつ行こう。
①薄力粉の図り間違え
これは今気づいた。やっている最中では45g図ったつもりだったがどうやら31gだったらしい。調べてみたら少なすぎると生地の収縮が起きやすくなるという。ということは今回はあまり関係がない?
まあ、間違いは間違いだからとりあえず挙げておいた。
②バターを溶かさず投入
これはもうそのまま。溶かしバターを「全て溶けた状態のバター」ではなく「常温に溶かしたバター」と解釈してしまったが故の惨事。ダマが多かったのでこれでいいのか??とは思っていたのだが、普通に間違いだった。
➂かき混ぜ不足
レシピ①のところで生生地の状態を検索していたら判明。これは生生地の完成を想像できてなかったためでもある。とろ~ともならずサラサラのまま投入してしまった。唯々おバカ。
弁解の余地もない。書いていてつらい。
④うちの家でスポンジケーキが作れなかった可能性
家には電子レンジとオーブンがある。オーブンならいけると思うのだがこれについては母が言っていただけなのでよくわからない。よくわからないが可能性はある。
さて、以上が今日のケーキ作りの惨状でした。
はあ…………
正直にいいましてめちゃめちゃ楽しかった!
一から何かをすることの大変さを楽しく経験することができ、非常に有意義な時間だった。何がいけなかったたのか一つずつ考えることのできる時間があったのも良かった。オーブンを開けた時、久々に大笑いした。一か月前に友だちの家でマンカラしたときくらい笑った。トライ&エラーを健全にすることができた。
やっぱり私はできないことを試みること自体が好きなんだなと思えた今日だった。(ゆえに社会との相性が最悪。社会は成果主義なため。)
ともあれ私が求めていたことができて、とても面白かったし楽しかった。これが今回の総評です。
日記みたいなものなのでまとめとしてはこんな感じで。
だが、このままではいられないことも事実である……!
今度は成功するぞ!
『生物多様性とは何か』を読んで、のついで
ブログ原稿を書いている時、コンビニの廃棄のポイント還元が検討されているというニュースと、民家に現れたクマを射殺するというニュースが上がった。タイムリーなので、それについて触れてみたいと思う。感想なので問いかけはするが、強制したいという意図はないことを宣言しておく。また、あんまり社会的なことを言うのは好きでないので適当に読んでほしい。
コンビニの廃棄については、非常に良いと思う。廃棄コストと売り上げの検討や売り上げを子育て支援に回す。それは直接的に環境にも負担を減らす取り組みになるだろう。
問題なのは民家のクマについてである。
新潟 NEWS WEBによると、新潟県十日町市では、今月に入りクマの目撃情報が相次いでいたという。5月12日の早朝、山岳部付近の民家にクマが出没。民間に危害が及ぶとして地元の猟友会のメンバーに射殺された。
この事件を受けて、Twitterでは喧々諤々の議論、というか叩き合いが行われていた。
具体的には「クマを射殺するのは可哀想だ」という声に対して、「自己陶酔」「脳内お花畑」など容赦のない言葉が投げかけられている。また、「三毛別事件」を引き合いに出す者もいた。
さて、では今回の事件で私は何が問題だと感じたのだろうか。
第一は、この不毛な叩き合いそのものについてである。
クマを可哀想と思う人が何故叩かれているのか、私にはわからない。それは「クマがかわいそう」という意見に全面同意しているのではなく、なぜその言説を叩くのかがわからないという意味でわからないのだ。可哀想と思うのは個人の自由である。また、それとは反対に、現実にクマが現れたら射殺するほかないと考えるのも個人の自由である。ではなぜマウントの取り合いのようなリプライが発生し、鬼の首を取ったように触れ回るのか。Twitterでは匿名性という誰が発しているのかわからないという状態から、人間の攻撃的な本性が出やすいというのを聞いたことがある。また、自身が正当な立場であると感じ、実際に多数の賛同者がいると気が大きくなり発言も過激になっていくというのはよく見られることである。
このような叩き合いを建設的な議論とはまず言えないだろう。認識を変えていこうというの意図があるのかもしれないが、喧嘩腰や高圧的な態度でモノを申しても反感を買うだけだ。「あなたがやれば」という意見も、大した反論にはならないように思われる。既存の方法で問題ないかと考えると、百点満点とは言い難い。何かしようとしても勇気が出ない場合だって当然ある。また、この言説を突き詰めていくと、クマと被害者と出没地域にいる民間人、それに猟友会の人々や駆除チームくらいしか意見をすることが出来なくなってしまう。それは新しいアイデアを取り入れることの妨げにもなる。
SNSという場はコミュニケーションツールが主であるため、このような意見の投げつけ合いは必然的に起こることなのかもしれない。だが、このような行為は双方にとって有益ではない。あなたの意見はあなたの意見、相手が受け入れるとは限らない。不毛な叩き合いは辞めて、言説は空リプにするくらいがちょうどいいのではないだろうか。発言の自由はある。
第二にこの二意見の認識の違いについて。
何故、クマを可哀想と思うのか。それは動物愛護の立場であったり、クマに関連した作品群が好きなのでクマを殺すのは良くないという話であったり、様々だろう。確かに、この2つの例の後者の言説は「現実をみろ」と言われても仕方がないように感じられる。物語と現実の違いは一応ある。
しかし、動物愛護の場合はどうだろうか。動物愛護は、生物はみな対等でありそれら生物を虐待や密猟から守ろうという立場である。この立場を安易に封殺してしまうと、生態系の維持といった活動も反対されることになるのではないだろうか。
日本、とりわけTwitterというSNSにおいて動物愛護を訴える者は叩かれやすい傾向にある。それは何故だろう。原因の一つに、愛護の対象が愛玩動物だけのみ、くじらやゾウなど知性が感じられる動物のみという印象が強いという点があると私は考える。Twitterのユーザー検索で「動物愛護」を検索すると、当然愛護団体が出てくる。ヘッダーやつぶやきを見るとそのほとんどが犬猫を対象にしていることがわかる。確かに、ペットのみを対象にするのは動物愛護を掲げるには対象が些か小さすぎる。自身の興味ある動物は助けて、それ以外は対象にしないというのも納得できる話ではないだろう。
また、今回この立場の批判で言われた「自己陶酔」も、動物愛護ではよく言われるように思う。いわゆる、ファッションとして動物可哀想と言っている場合があるからだ。これについて私は何も言えないし、長々と論じる必要もない。
これらを鑑みる時、批判されやすい土壌が出来上がっているというのが率直な印象だ。動物愛護者は、この印象を取り除くところから始めなければいけないのではないだろうか。
次に、長いが今度はクマ射殺擁護派の意見を見ていこう。(クマ射殺擁護派と書くが、私自身は射殺賛成寄りの致し方なし派である。表現の仕方が悪いのは理解しているのでご容赦頂きたい。)
クマ射殺擁護派の大体の意見としては、「クマは危険」「実際にクマに遭遇した時に同じことがいえるのか」である。
日本にはヒグマとツキノワグマの2種類が生息している。民話にも多く登場することから、古来より日本人と関わりのある文化的には重要な動物であろう。ヒグマはクマ科最大の大きさを誇り、日本では北海道にのみ生息している。ツキノワグマは本州から四国にかけて存在していて、双方とも人間と生存範囲が重なっている。日本のツキノワグマは生息域によってはレッドリストに含まれるものあり、九州ではすでに絶滅したとされている。
さて、擁護派の意見の中に「三毛別事件」をみよという意見があった。これの詳細については、ウィキペディアが非常に読み応えのあると評判なのでそちらを参考にしてもらいたい。ここで提唱したいのは、三毛別事件が今回の事件に相応しい事件例であったかということだ。三毛別で村を襲ったクマの個体はヒグマであった。そして、今回の事件はツキノワグマである。同じクマではあるけれども、その生態は完全に一致しているとはいいがたい。それらを同列に並べることは誤診を招くことにはならないか。
「三毛別事件」はヒグマの恐ろしさ、強靭さ、習性については非常に説得力がある事件だ。それを見ることで見識を改めてほしいと思うのもわかる。しかし、クマは非常に恐ろしい動物だから見つけ次第射殺してくれという方向に認識がいってしまったら、生態系の認識としては誤っているのではないか。「三毛別事件」について言及する者はこの点についても考察してみてほしい。
「実際にクマに遭遇した時に同じことが言えるか」という意見は、生態系の正しい認識を持つ際には重要になってくる言説である。「三毛別事件」でも、ヒグマの習性の総括が掲載されており、ヒグマ理解のためには意義深い総括である。
クマと遭遇する状況とはどのようなものが挙げられるだろう。今回は住宅地に侵入したケースだ。他には山登りの際に遭遇するくらいか。
住宅地に遭遇した場合、速やかに避難し警察や自治体に連絡するくらいにしかないように思われる。山登りの際にも同じような手段が取られるはずだ。流れとしての問題はない。
しかし、問題なのはどのように避難するかである。ヒグマの場合、動く者を追う習性があると言われる。山で遭遇した際は、大きな声を出しながらクマの正面を見据え徐々にバックしていく方法などいろいろあるが、恐怖心に支配された人間がそのような行動を冷静にできるだろうか。
恐怖心を過剰に増長させることの危険性がここにある。正しい知識を持つ者であっても、現場に出くわした際、知識通りのことを完璧に遂行できるとは言い難い。そうでないものはなおさらだ。クマに遭遇して助かるかどうかは運のようなところがあるけれども、しっかり知識を持って実行できていれば助かる確率もあがるのではないか。「クマに遭遇した場合におなじことがいえるのか」とだけ意見している者は、クマ対面の印象を強調するだけでなく、もし可哀想派がクマに遭遇してしまった場合のために、対処法を書いておいたら良いのではないだろうか。助かった人から感謝され、認識を改めてくれるはずだ。
また、ヒグマではあるがクマに遭遇した場合の対処法については、公益財団法人知床財団が詳しい方法を提示している。
これらすべてを顧みた場合、ただ、クマは危険だから可哀想という認識は間違っているというより、実践的な知識を持つことと動物を正しく把握することを訴える方が、諍いに発展するケースは少なくなるように感じられる。重要なのは相手と対等に話し合うという対話の姿勢であり、教えてやろうという説教的態度ではないだろう。
最後に、クマの射殺という点を考えてみたいと思う。
クマを射殺することは良いことだろうか。勿論、ここでは射殺という点にのみ言及するのであり、猟友会の行為にケチをつけるわけではない。猟友会は、生物に最大の敬意を払い人間側と生物の双方を両立させるバランサー的役割を担っていると私は理解している。その行為は賞賛こそすれ批難を浴びせるいわれはない。
現在、クマを射殺することは致し方ないように思われる。麻酔銃はその携帯に都道府知事の許可が必要であるし、クマの場合は麻酔が効くまでに凶暴化する恐れがあり原則として許可されていない。また、クマが人間の味を覚えてしまった際、人間を再度捕食する可能性が高まるため、それらを予防するためにも射殺するということはもっともであると私は考える。大型種であるため、ケージで捕獲という訳にもいかない。アメリカで使われるほどの大きなケージがあれば別だが。
これらを考慮すると、やはりクマを射殺することは他に方法がない点で致し方ないように思われる。しかし、先述したように日本のクマ――とりわけツキノワグマ――は地域によっては絶滅危惧種であるため、保全は必要になるだろう。そのため、今現在は、射殺する選択が取られることに異論を唱えることはできないが、それ以外の方法を検討されるべきだと私は考える。
日本は人間と動物の距離が非常に近い地域だ。野生生物の生存圏と人間の生存圏が元々重なり合っている地域は多いし、これからも増大していくだろう。
それにしても、なぜクマが出没したのだろうか。これはただ単に迷い込んだのかもしれないし、山に食べられるものが少なく仕方ないから降りてきた先に民家があったのかもしれない。前者はどうにもならない。クマと会話ができないからだ。しかし、山に食べられるものが少なくなったというのは、私たちに原因があるもしくは原因はなくとも、何とかできそうな問題ではないか。森林の伐採によりクマ、及び野生生物の住める地域が減っていることは知らない者の方が少ない現実だ。それらに対してどう接していくかを問われる時が来たのではないか。
日本は大きな保護区を作るほどの国土も財力もない。さらに生物の関心が一般的には低いことから生態系の問題は後回しにされることが多い。しかしこれらの問題は、クマ出没のように非常に身近なものであるし、私たちにできることのある問題である。生態系を正確に捉えること、現状を把握することはこの問題に取り組む際に大切であり、一般の人にもできる事柄だ。ゴミをポイ捨てしない、エアコンの使用回数を減らすなど些細なことでもよい、取り組んでいるのが重要なのだ。一人一人の意識が全体を変えていける風になることを願う。
最初にも述べたが、今回このニュースについて取り上げたのは『生物多様性とは何か』を読んだ直後に起こった非常にタイムリーな事案であったからである。最後の方は生態系理解の方向に引っ張られてしまった感があったので軸はしっかりしていきたい。
『生物多様性とは何か』を読んだ。
はじめに
我々は普段、自然とはあまり関心がなく生きているような気がする。農作物など、人体の維持に必要不可欠なものを除き、私たちの身近な自然物について、私たちはあまりに無知ではないだろうか。例えば、春に公園を歩いていてふと視線を下げると、青色の小さな花が沢山生えていた。この植物の名称、植生、絶滅危惧種かそうでないかなど、それらを詳しく述べられる人は少ないように思われる。
実際、それは当然のことでもある。私たちの関心事は人間関係だとか、人生の未来についてだとか、よりお金を稼げる方法だとか自身の生活に基づいたアレコレであり、足元に何が咲いていようとも余り関心は無いのが普通である。花の種類を知っていたからといって何ができるわけでもない。それなら、自分の身の回りに目を向けた方が有意義であると考えるのも当たり前だろう。
しかし、私たちの生活を成り立たせる上で自然という存在は非常に大きい。動植物がいなければたんぱく質を摂取するのは難しいし、酸素も無限にあるというわけでは決してない。自然が失われたことによって起こる災害や二次被害も多くある。
私たちがより良い生活をしていくうえで、自然――世界全体のでも、身近ものでも――が今どのような状態にあるのかを理解することは、これからの未来を見据える際に重要なことになってくると私は考える。
本著書は、生物多様性とはどういうことかについて論じるようなタイトルではあるが、内容自体は生物多様性の維持やその取り組み、ホットスポットと呼ばれる生物多様性がより顕著な地域で行われているビジネスを通した自然保護の運動など、やや経済寄りの視点になっている。
また、2010年に書かれたものであるので、データが少々古いこともあるかもしれないが、ご了承願いたい。今回は要約しながら考察していきたいと思う。
1.自然がもたらす様々な利益
人の暮らしは自然の上で成り立っている。企業に勤める方々は社会の中で生活をしているため、実感が薄れている人もいるだろうが、農業や漁業をされている方はよく理解されるはずだ。
例えば鳥類には、作物に群がる昆虫を食べたり、花の受粉の媒介になる種類が多くいる。それらがいなくなってしまうと、環境に大きな変化が起きてしまう。
著書の中で紹介されていた例を挙げてみよう。それによると、2000年にインドの国立公園でハゲワシの個体数が激減する事件が起こった。それを調査したところ、動物性医薬品「ジクロフェナク」が使われた家畜の死体をハゲワシが食べ、その結果、内臓障害を起こして死亡していたことが明らかになったという。ハゲワシの減少はインドや周辺国でも見られ、十年の間に95%以上にものぼるといわれる。
ハゲワシが減少したことで何が起こったか。本来ならハゲワシが処理してくれるはずの生物の死体がそのまま放置され、それらを餌にする野犬やネズミが急激に増えてしまったそうだ。
このように、一生物がその生態系の中で担う役割は大きい。鳥類だけでなくとも、昆虫のような小さなものでも、いなくなってしまうと大きな影響を及ぼす恐れがある。
昆虫の例で身近なものはミツバチだろう。ミツバチは私たちに美味しいハチミツをもたらす。ハチミツを作るためには沢山のミツバチが必要で、巣をつくるためには住処の材料となる木が必要だ。ハチミツの材料は花の蜜であるため、ミツバチの周りに沢山の花が無ければいけない。どれか一つでも欠けると、ハチミツは充分に作れなくなる。ミツバチがいなくなるとハチミツは二度と家庭に提供されなくなる。
また昆虫は、植物の受粉に重要な役割を担っている。ある昆虫でないと受粉が起こらない植物も珍しくない。
これらのように、生態系が人間にもたらしてくれる恵みを、科学者は「生態系サービス」と名付けている。このサービスは「供給サービス」「調整サービス」「基盤サービス」「文化的サービス」に分かれて整理されている。
「生態系サービス」は人間の福利や精神的活動に大きな影響を与えており、経済的にも非常に重要であるという。大規模なダムをつくることと自然を利用した天然ダムを維持する事、どちらが経済的に有益かという話である。その話の中にはマングローブや干潟も、高潮防止に役立つ働きや汚染処理の関係で評価されている。この「生態系サービス」を経済的に評価することは、生態系を守る上、事業開発をする上で重要なファクターになると述べられている。そして、事業政策決定者は長期的な視野を持って取り組んでほしいと筆者は述べている。
つまり、この「生態系サービス」を積極的に考慮して事業に取り組もう!というのが著書の第一章の非常に雑なまとめになる。
↑もしかして、股引きになる?
さて、スパンとコストをダム建設で考えると、ダムは短期的な時間で利益を得られる代わりにコストが高い。マングローブなどの天然ダムであると、長期的に時間がかかるが、コストは抑えられる。このように見た場合、時間と利益のどちらを取るのかという問題のように見える。だが、実際にはダム建設を行うと周囲の生態系を変化させることがあるし、マングローブを育てる際に自然災害で突然に枯れてしまうということもあり得るので話は単純ではない。
これらを鑑みた際、事業側はダムを作ったほうが利益になると考える者は多いように私は感じられる。生態系を破壊して得られる短期的利益は非常に大きい。人間は自然環境より長くは生きられないのだから、自分が生きているうちに利益を享受したいと考えるのは合理的と評価が下されることも想像に難くない。
しかし、生態系が一度破壊されると、それを立て直すのには非常なコストと時間を要する。ダムを作ったのは良いが、そのせいで水産資源や自然に影響を与えてしまい、それらを補填したら結果的にマイナスの利益になってしまったら事業的には意味がないのではないか。政策者はぜひとも生態系を考慮した政策をしてほしいところである。
2.絶滅危惧種について
皆さんは絶滅危惧種を知っているだろうか。
比較的身近な動物を挙げると、二ホンウナギ(絶滅危惧IB類)、クロサイ(絶滅危惧種IA類)、キリン(絶滅危惧種Ⅱ類)などがリストに入れられている。
世界の絶滅危惧種をまとめたリストの中で、最も権威のあるものが国際自然保護連合(IUCN)の評価である。「種の保存委員会」というIUCNの中に在る研究チームが分類ごとのグループに分かれて調査を行い、それら調査情報をもとに「レッドリスト」と呼ばれるリストが公表される。これが一般的に絶滅危惧種かどうかを決める表になる。
レッドリストは生物種を八つのカテゴリーに分けて分類している。
2008年に発表されたレッドリストで評価された動植物種は4万4838種であり、過去最多だという。現在確認されている動植物種は全体で180万種だというのでこれでも少ないように感じられる。
日本の場合だとどのようになるだろうか。日本国内に9万種以上の動植物が存在していると言われ、未分類すべてを加えると、30万種を超えると推定されている。
日本では、1991年から環境庁がレッドデータブック『日本の絶滅のおそれのある野生生物』を公表していて、定期的に更新されている。
2007年のレッドリストの公表では、評価対象が動物約3万6700種、植物約3万2300種で絶滅の恐れがある種は動物1002種、植物2153種であった。
その中でも特に生息状況が悪化していたのは淡水魚で、外来種の侵入や生息地の減少が絶滅に拍車をかけているという。また日本においては、かつてはよく見られた生物が減少傾向にあることや海洋生物に関する調査が不十分であることが問題になっている。
日本は生物多様性が豊かな地域だが、それは危機に瀕しているといわれる。
一つ目の危機は人間が引き起こす原因。二つ目は里山など、以前人が管理していた土地が人口減少による過疎化で管理が生き届かなくなった結果、生息状況に変化がみられていること。三つ目は外来種や化学物質等による生態系のかく乱である。また、近縁種が交雑することによる遺伝子汚染も問題として取り上げられている。
日本においても世界においても、生態系サービスの現状は厳しい。生態系サービスを調査する団体によると、生態系サービスの質が向上した項目は数少なかったという。供給サービスの食品項目の要作物、家畜、養殖等、ヒトの暮らしに関する項目は向上していたが、調整サービスの大気質の調整や水の浄化、自然災害の調整や文化的サービスの項目は減少が多い。
これらの問題が私たちの意識に上がることは少ない。
日本ではクロマグロやウナギを食べる文化がある。それは一概に悪いとは言えない。食文化は各国の特色を顕著に示すものであるし、食すことでその生物の知名度は上がる。知名度が上がるということは、その植物をより身近に感じられるため、それら危機に敏感になりやすいという点で重要である。また、私たちヒトも生物なので、エネルギーと各種栄養を摂取しないと生きてはいけない。
では何が問題なのか。私個人の意見をいうとやはり廃棄が一番の問題なのではないだろうか。毎日大量の食品が製造され、食べられずに捨てられていく。誰のエネルギーにもならずにただ捨てられていく。非常にもったいない。売り上げが落ちるため、廃棄を配るという訳にいかない。非常にもったいない。もったいない。さらに悪いことに、というかこれらの問題を解決するには我々ではどうにもならないのが現状だ。不買運動が私たちにできる一般的な抵抗運動だが、不買している間は廃棄が増える。ジレンマのような、何ともままならない状況である。
あまり社会的なことを言いたくはないが、このままではドードーの再来になるのではと感じられる。ドードーはかつてモーリシャス諸島に存在していた鳥類で、1681年に絶滅したとされる。空も飛べず、人を恐れなかったという彼らは入植者の格好の餌食になった。また、入植者が持ち込んだ犬や豚などにより数が激減。森林開発などの影響で存在確認から80年と少しの期間で絶滅した。
私たちは400年前から全く変わっていないのだろうか。今後に期待したいが、楽観的にはいられないのが現状だ。
もう一回言っておくが、食べることは悪いこととは言えないというのが私の考えだ。実際、ウナギは美味しい。この味を後世に伝えたいほどおいしい。
しかし、保全のために禁漁をするなら英断だと称賛するし、保全できるならしたほうが良い。また、この問題には乱獲が絡んでくるのだが、それは次節で触れることにする。
3.世界の保護活動
中南米に位置するベリーズでは、1970年後半の輸出拡大政策によってシーフードの乱獲が絶えなかったという。しかし、地元の人々が結託し環境保護団体を設立した。それはジンベイザメを守る海洋保護区で、ジンベイザメの産卵期間には一部の地元民以外の漁業が禁止され、その間は団体のメンバーが密漁を監視して警戒にあたっているという。また、エコツーリズム産業に力を入れることで、自然に負担をかけない産業を目指している。
マタ・アトランティカと呼ばれる大西洋岸の森は、元々カカオの原産地だったが1989年におこったカビの病気(ウィッチブルーム病)により甚大な被害が発生した。しかし、「カブルカ」と呼ばれるカカオを木陰で育てる伝統手法で、ウィッチブルーム病に耐性のある種を栽培して行くことに成功したという。その農家はそれを地元の特産品として売り出している。
この「カブルカ」のように、元々ある森林の中で作物を栽培させる方法を「アグロフォレストリー(農林複合経営)」という。この方法が適している作物は掲載されているものでも、キノコ、胡椒、バニラ、ナッツ、松の実、コルク、ゴムなど数多い。
このような環境に寄り添う事業形態の他にも、国連等が中心に進めている森林保全と温暖化防止対策に「REDD」というプログラムがある。簡潔にいうと、二酸化炭素取引で排出枠の売買に関するプログラムだ。これは二酸化炭素排出量が多い国が、少ない国の排出枠を買うことで、少ない国に利益が得られるという取り組みである。こちらで説明すると長くなるかつ取りこぼす可能性が有るので詳しくは記載しないが、大変ユニークな取り組みのため興味のある人は是非検索して調べてみてほしい。
そのほかでも、アメリカでは生態系を考慮する様々な取り組みが生まれている。生態系の再評価によって、事業の取り組みが再検討された例もあり、社会でも生態系が考慮され始めていることがわかる。
本著書において、生態系の取り組みにおける日本の評価は厳しいものとなっている。温暖化や生態系保全に対する政府の規制やその取り組みが不十分という指摘がなされ、海外の企業開発投資などで環境を破壊している間接的な要因になることもあるという。また日本では、漁獲量の減少を懸念して、海洋保護区の設立に反対するものが多いのも重要なファクターだ。
また、どこの国でも問題になっているのが動植物の違法な捕獲や行き過ぎた乱獲である。これは違法に捕獲する国が自国だけとは限らないため、取り締まるのが非常に難しいように感じられる。一つの国で禁漁をしたとしても他の国で漁が続けられていたのなら、禁漁をする側もやるせないし禁漁の効果も薄くなってしまう。国際間で、なおかつ民間の問題だとすると規制の手が回らないのが現状といえる。
野生へ帰化させ繁殖に成功した絶滅危惧種が、密漁により再び危機に瀕しているのも問題である。絶滅危惧種には希少価値や経済価値が高いモノが多いため、密漁をする者は後を絶たない。比較的簡単に高いお金が手に入るという理由も、密漁をする者が減らない理由であろう。
これらを防ぐには、国の政策や保全団体が取り締まりを強化するくらいしか手が無いように思われる。民間には取り締まる手立てがないし、権限もないからだ。この問題を放置しておくと、種の絶滅はもとよりその地の生態系の破壊にまでつながる恐れがある。
しかし、密漁者の数は留まるところを知らないのが現状だ。
これらの問題を解消させ、生物多様性や生態系を守っていくにはどうしたらよいのだろうか。保護区を作ることや自然にやさしい事業を取り組むことは有効だ。生態系を経済的目線からとらえ、それらに価値を付与することも非常に重要だと私は考える。
しかし、個々人にまで考えるとどうだろうか。私一人が何をやったところで意味はない、無駄だからやらない、という意見が多いように感じられる。確かに一人一人が及ぼす結果は微々たるものだ。だがそれでも、行動したほうが変化は生じる。小銭貯金のように、それらを積み重ねていくと大きな予算になる。無駄だと考えている人たちには、是非長期的視野を持って、再考してみてほしい。一歩ずつ理解を深めていくことは決して無駄ではないはずだ。
まとめ
本著書は環境保護の観点から生物多様性について論じられており、その取り組みには自治体レベルから国際的な範囲まで様々であり、その規模は年々広がっているということが述べられてきた。生態系保護は未だに難点が多くあり、一筋縄ではいかない問題も多い。しかし、生物多様性は世界にとっての重要な資産であり、それらを維持することは人間とっても非常に有用であるため、放置できる問題ではない。というのが本著書を読んだ感想及びまとめになるだろう。今回は著書をかいつまんで要約するという目的のため、ホットスポットの概念やより具体的な政策等にふれることはしなかった。もし、このレポートを読み興味を持った人は是非、この著書を読んでみてほしい。
なお、私は生物学者でもなんでもない一般大学生であるため、間違っている知識もあるかもしれない。そのような個所があった場合、より新しい取り組みが行われている事業があった場合は是非教えていただきたい。良質な知識が増えるのは私の本望である。
参考文献
今回これを書いていて、文体やテーマが堅苦しすぎたように感じたので、次はもっとほのぼのとした内容の何か(感想でも小説でも)を書いていこうと思う。メリハリとかが大事なんじゃないか、多分。
ブログ開設してみた
ブログを開設してみた。
今回は、特に書くこともないので書きたいこととかを書いていきたいと思う。(重文)
まず、日記を書きたい。
紙にかけよと思うかもしれないが、紙だと消したり直したりページ数の問題や自分の文字の汚さ、飽き性とかいろいろ問題でてどうにも長く続かない。その点ブログだと、毎日やらなくてもいい感じがするし、なんだか面白そうである。
高校の古典でやった『徒然草』や『枕草子』が好きで、日記や随筆といったものに憧れがあるのも理由の一つかもしれない。ちなみに『枕草子』は大学で三回借りて三回読まずに返したことがある。次こそ読みたい。
そんなこんなで日記はずっと書きたいと思っていたから、ちょうどいいかなと。
次に、読んだ本の感想等。
自分は記憶力が悪いので読んだ本の内容を覚えていられない。本を読むのは好きだが、覚えられないのは自分でも残念過ぎると思っている。なので、ブログという場を活用して感想や考えたことなど思考の保存をしていきたいと思う。本のジャンルは問わない。
本~本~~ポポポポポポポポポ。
後は、旅路の記録。
出かけるのは楽しい。自然が好きだ。うんち。間違えた。
まあそんなこんなで旅行した場所、したことをブログで紹介出来たらと思う。後、昆虫とか生物が好きなのでそれについても上げていけたらと思う。タイトルに閲覧注意表記はしたいと思う。
大体こんなところだろうか。初めてやることなのでよくわからないことも多いが、のほほんとやっていきたいのでどうぞよろしくおねがいしたい。
後、エッセイというかショートショートの小説をこっちでもあげようか迷っている。(そういうのはnoteにアップしたほうが良いのかな)なんでもいいんかな。